はじめに
唾液中のアミラーゼや、胃液中のペプシン、膵液中のリパーゼなど、食物の消化に関与するものと、細胞や組織を機能させるために必要な酵素である核酸合成酵素やリン酸化酵素、タンパク質合成酵素、またプログラムされた細胞死にかかわるカスパーゼ、生体を酸化から防御する酵素であるスーパーオキサイドディスムターゼやカタラーゼなど、私たちの体は実にさまざまな酵素を作り出しています。同じ機能を持つ酵素でもアミノ酸配列は動物や植物の種それぞれに固有であり、アミラーゼと同様にデンプンを分解する酵素で大根にも含まれ麦芽や麹菌から分離されたジアスターゼは医薬品として使用されています。カビや菌類が作り出す酵素も食品加工などの産業用や研究用に用いられています。今回取り上げる酵素は、臨床用、研究用で広く用いられる西洋わさびペルオキシダーゼ(Horseradish peroxidase:HRP)です。上の図はHRPのアミノ酸配列を示したもので、カラー文字は反応性官能基を持つアミノ酸示しています。
ペルオキシダーゼの種類
ペルオキシダーゼは過酸化水素や過酸化脂質などの過酸化物を分解する酵素、また、その反応において電子供給元となる様々な物質を酸化する酵素で、多くのペルオキシダーゼが存在します。グルタチオンペルオキシダーゼ(GPX)やアスコルビン酸ペルオキシダーゼ(APX)は、その名の通り基質はそれぞれグルタチオン(GSH)、アスコルビン酸を酸化します。GPXは二分子のGSHを酸化してジスルフィド結合を持つ酸化型グルタチオン(GSSG)とします。その際に過酸化水素からは二分子の水が生じます。APXはアスコルビン酸を酸化しデヒドロアスコルビン酸とし、二分子の水が生じます。一方、HRPによって酸化される物質の構造は多岐に渡ります。分子量が約44,000と小さく単量体であること、他の酵素にくらべ安定であること、過酸化水素を発生する系の分析に使用でき、且つ酸化発色系化合物が利用できることなどから、広く臨床分析や研究用途に活用されています。HRPは西洋わさびの根に多く含まれており、量的かつ安定的に供給可能なため安価に入手できることも利用される理由の一つです。
HRP(西洋わさびペルオキシダーゼ)の反応
HRPは構造内にポルフィリン鉄錯体を持ち、過酸化水素との反応によって鉄に酸素が配位したHRP-Iと呼ばれるカチオンラジカル構造となり、同時に水分子が生成します。HRP-IがHRP-IIになる過程で電子ドナーと呼ばれる分子から電子を引き抜き、生じたHRP-IIはさらに電子ドナーから電子を引き抜いてHRPに戻ります。この一連の反応の結果、二分子の水と酸化分子が作られます(図1)。通常、ポルフィリン鉄錯体単独で過酸化水素を活性化させるには高アルカリ性条件が必要ですが、HRPにおいては5.5から中性のpH領域で最も活性が高くなります。
図1 HRPの反応
電子ドナーには、フェノール類やアニリン誘導体など、解離性のプロトンを持つ化合物が用いられます。そのため、酸化されることにより色が変化する化合物も多く、それを利用した微量分析法が開発されてきました。次の項ではHRPの利用についてご紹介します。
HRP(西洋わさびペルオキシダーゼ)の活用法
血液分析への利用
HRPは臨床検査における診断項目の分析や研究に広く利用されていきました。臨床診断で活用されるようになったのは、複雑な成分からなる血液に含まれる特定の成分の分析に際して、基質選択性の高い酵素が利用されるようになったことがあげられます。血糖値の分析は糖尿病の指標として、また日々の血糖値の変化とインシュリン注射の判断に用いられています。そのため医療機関での計測に加えて患者自身による計測も必要となっており、様々な分析方法と装置が開発されてきました。その方法の一つとしてグルコースオキシダーゼを使って血液中のグルコースを酸化し生じた過酸化水素をペルオキシダーゼで分解しつつ発色系に持っていく方法が発案され、小型の装置と組み合わせて使用されることになります。比色法を使った試験紙型の血糖値分析システムは、指先を針でつついて出てきたわずかな血液を試験紙に乗せると、血液がしみこんでいく過程で血球成分が除かれ、血漿が試薬の層を通る際に試薬と混ざり合って酵素反応と発色反応が進行し、結果として試験紙の表面にグルコース濃度に応じた量の色素がにじみ出てきます。その色を反射光で測定することにより、血糖値はデジタル値に変換されて末梢血の血糖値を知ることができる仕組みです。採血量をより少なく、より正確に、かつ迅速に結果を得ることを目指して様々な要望に応えたものが現在市販されている血糖値分析計です。同時に痛みを感じにくい採血装置の開発も進んできました。開発当初と比べると中身は変わり使われる酵素も試薬も大きく変化しています。
高感度分析法への利用
HRPは分子量が比較的小さいため、抗体分子に結合させて高感度な免疫分析に利用されています。HRPは抗体と共有結合でつながり、抗体が抗原の構造の一部を認識して抗原に結合します。抗原の量によって結合する抗体の量が変わるため抗体を介して抗原につながったHRPの量も変わります。HRPは過酸化水素存在下で色素系の電子ドナー(発色試薬)を酸化しますので、その発色量を吸光度で求めて抗原の量を知ることができます(図2)。この方法は広く活用され、様々な抗原を対象にした分析キットが数多く販売されています。HRPは分子が小さいことに加え、化学的修飾にも強く、酵素活性がさほど低下しないということも標識に使われる理由の一つです。
図2 HRP標識抗体による抗原の測定方法
一般的にELISA(Enzyme-linked Immunosorbent Assay:酵素結合免疫吸着測定法)と呼ばれるこの方法は、従来の放射性同位体を用いる方法に比べ安全で、どこでも高感度分析が実施できることから瞬く間に研究者の間に広がっていきました。この技術の開発には様々な研究者が異なる場所で関わっており、1971年にオランダとスウェーデン、フランスの研究室から論文が発表されています。多検体を一度に分析できるマイクロプレートアッセイには欠かせない方法であり、マイクロプレートアッセイの広がりとともにスウェーデンの研究者が命名したELISAという名称が使用されています。
ペルオキシダーゼ(HRP)検出に用いられる色素
最も広く使用される分子はジアミノベンジジン(DAB)で病理サンプルなどの免疫染色に用いられます。DABは溶液にすると空気中の酸素によって酸化されて徐々に褐色になっていきます。DABの酸化体は分子が重合した構造をとり茶褐色色素となります。またテトラメチルベンジジン(TMBZ)はELISAに使われ、酸化体は二分子ラジカル構造をとるため青色色素となります。感度を上げるために酸を加えてpHを下げると黄色の発色体となり、微量な抗原を定量することができます。また、臨床検査に用いられる色素はトリンダー試薬と4-アミノアンチピリンの組み合わせです。トリンダー試薬にはフェノール化合物やアニリン化合物などがあります。酵素反応に影響せず血液分析の際に妨害となるビリルビンの影響が低い色素を求めて新しい色素の開発が行われてきました。また、色素ではそれぞれのモル吸光係数で検出感度が決まりますが、ルミノールといった発光基質を使った高感度検出なども検討されています。
おわりに
血糖値測定や研究分野でペルオキシダーゼは大きな役割を果たしてきましたが、これからも様々な分野で使い続けられる酵素の一つだと思われます。HRPの原料でもある西洋わさびは食用で、しょうゆ漬けで提供されたり肉料理の調味料などとして使用されています。西洋わさびは日本でも年間1,500~2,000トン生産されていて、練りわさびやチューブ用わさびの原料として使われています。本わさびの年間生産量は西洋わさびよりも少し多く、約2,200トンとされています。ちなみに、本わさびが半分以上入っていれば「本わさび使用」、それ未満では「本わさび入り」とパッケージに表記されるようになっているようです。辛味刺激を感じる成分はシニグリンといわれる配糖体化合物が加水分解されて生じる揮発性のアリルイソチオシアネートですが、本わさびと西洋わさびのアリルイソシチオネートの割合は異なります。成分や生産量についてはいくつかのサイトで紹介してありますのでご覧ください。
参考情報
金印わさびサイト:わさびの成分
統計でみる日本:県別わさびの生産量
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